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【参考】海外における活用事例

1.歴史的街区全体が劇場となるアヴィニョン・フェスティバル
1―1.アヴィニョンの概要

 アヴィニョンは、フランス南部プロヴァンス地方の歴史的な小都市として知られる。14世紀にローマ教皇庁がおかれ、この間に建設された僧院や教会が、周囲約4.3kmの城壁に囲まれた旧市街を特徴づけている。教皇が去った後も、400年にわたり教皇の統治下におかれ、イタリアの影響を色濃く受けながら発展した。フランス革命の後フランスに復帰し、フランスの地方都市として歴史を刻んできた。
 城壁に囲まれた約1平方キロメートルの旧市街は、市の北端に位置し、ローヌ川に接している。そこから南へ扇状に住宅地、流通基地、農地・果樹園が広がる。現在市の人口は約87,000人である。この小都市が、国際的に知られるのは、世界遺産にも指定された教皇庁所在地という歴史的資源はもちろんのことであるが、その歴史的な遺産を活用したフェスティバルで国内外から人口の数倍にも上る観客を集めるためである。日本では「アヴィニョン演劇祭」で知られるフェスティバルは、毎年7月の第1週目の週末から3週間にわたり開催され主にこの城壁内の歴史地区を会場としている。パリからはTGVで約4時間を要する。

1-2. アヴィニョン・フェスティバル(Festival d’Avignon)の概要

 日本で「アヴィニョン演劇祭」として知られる夏のイベントは、実際には、アヴィニョン・フェスティバル(Festival d’Avignon)とパブリック・オフ(Avignon Public Off)のふたつのフェスティバルで構成されている。前者が、ディレクターが選出あるいはプロデュースした作品を招聘、上演するのに対し、後者は経費を自己負担すれば誰でも作品上演ができる自由参加である。ここでは、現地での通称にならい、アヴィニョン・フェスティバルを「イン」、パブリック・オフを単に「オフ」、両者をあわせた全体を「フェスティバル」と呼んでおく。2005年は7月8日から7月28日までの3週間にわたり開催された。インは例年20数箇所の会場で50前後の作品が上演され、12万人程度の入場者を集める。インの会場のうち劇場として建設されたものは、市立劇場の一カ所のみで、その他はすべて既存空間を劇場へ転用している。
プログラムは、中心となる演劇、ダンスのほか、音楽やレクチャー、関連展示、シンポジウムなど多彩な内容で構成される。舞台作品は、世界初演、フランス初演、現代あるいは古典戯曲の若手演出家による作品など、アヴィニョンならではの新作上演が中心である。
 一方のオフは、インと全く同時期に開催され、2005年は113の会場で630参加団体により770作品が上演された。数百の舞台公演が、1日のうちに、ひとつの町で行われているという物凄い数である。1日に6つ前後の異なる作品が、ひとつの会場で上演されていることになる。現在のアヴィニョン・フェスティバルは、国際的にもまず、この上演作品の多さに特徴付けられる。また、オフの会場で、あらかじめ劇場として整備されたものは皆無である。現在、通年の劇場として運営されている会場が113の会場の内1割程度は存在するものの、この非劇場空間の利用の多さがアヴィニョンのフェスティバルに独特の雰囲気を与えている。

1-3.アヴィニョン・フェスティバルの創設と展開

アヴィニョン・フェスティバル(以降「イン」と呼ぶ)は、第2次大戦後の1947年に、開催された「アヴィニョン芸術週間」(Un Semaine d’Art en Avignon)がその始まりである。アヴィニョン出身の詩人ルネ・シャールと美術批評家クリスチャン・ゼルボワが、第2次大戦で傷ついた人々の心を芸術で癒そうと、マチス、ピカソ、レジェなど現代絵画の展覧会を教皇庁で開催することにした。あわせて演出家ジャン・ヴィラールに演劇の上演を依頼した。ヴィラールは、教皇庁中庭の何もない広大な空間は、演劇には不向きであるとして、最初は難色を示す。しかし、最終的には決断し、演劇上演を行うことにした。期間は、9月4日から11日の1週間で、観客は、4,818人、そのうち関係者が1,828人であった。現在とは、比べ物にならないくらいの簡素さである。
しかし、半世紀を過ぎた現在でも変わらないのが、教皇庁中庭の会場で、フェスティバルの会場の中では、最多の2,250人のキャパシティを持つ。アヴィニョンの町そのものの核であり、フェスティバルのシンボル的な会場だ。
アヴィニョン・フェスティバルは、ジャン・ヴィラールという演出家と教皇庁中庭という場所から始まった。ヴィラールは、また、パリという都会に一極集中した、特権的な一部の観客が楽しむ演劇ではなく、地方で一般の市民に提供する舞台こそが必要だと、「民衆劇場Theatre  National Populaire(TNP)」を率いて、作品上演を精力的に行い、フランスにおける民衆演劇運動を率いた演劇人である。ヴィラールは、当時パリで見るものとは全く違った作品を通して、若く、新鮮で熱心な観客を惹きつけたいと考えていた。ヴィラールにとって、アヴィニョン・フェスティバルはその活動のひとつの拠点でもあった。
1996年に、インの50周年を記念して、フェスティバル事務局がまとめた小冊子によれば、インの歴史はその運営内容の特色から以下の三期に分けられる。
[第1期]1947年―1963年
ジャン・ヴィラールと彼が率いる民衆劇場が中心的な作品を上演した。教皇庁で行った公演に特徴づけられる。ヴィラールというアーティストの色が濃い時代だ。
[第2期]1964年―1980年
 ヴィラールの演出作品の他に、多様な劇作家やダンスなど演劇以外のジャンルにもプログラムを展開していった。また1966年からインは市の団体として運営された。
[第3期]1980年―現在
 インの運営組織が、アソシアシオン(フランスにおける公益法人)として市から独立、国からの補助も受けられるようになり、規模が拡大、内容も多様化し、国家的文化事業の性格を強めてきた。
 
 このようにアヴィニョン・フェスティバルは、一人の演出家と一つの場所から始まり、演劇を取り巻く社会的・政治的な背景の影響を著しく受けながら、規模を拡大し変化発展してきた。インで上演される作品群については、毎夏フランス新聞紙上でも様々に議論されるということだが、現代的で質の高い演劇作品を制作・発表することを目標とするなかで、幅広い観客層の期待に応えるため、古典の新しい解釈による作品発表に関し腐心しているというインの事務局の発言には、ヴィラールの意思が今も継承されていると言えるだろう。

1-4.アヴィニョン・フェスティバルの組織と運営

 現在インを主催・運営するのは、アヴィニョン・フェスティバル運営協会( Association du Gestion Festival d’Avignon)という公益法人である。アヴィニョン市長が形式上は評議会の代表となっており、市の外郭団体として位置づけられている。評議会は、助成団体の代表を中心に、フェスティバルと関係するその他の芸術団体の代表など関係者からなる。
 招待作品の選定は、各地から持ち込まれたプロポーザルを中心に、フェスティバル事務局が行う。作品選定などプログラムに責任を持つディレクターは、1970年までヴィラールがつとめ、その後ヴィラールの右腕であったポール・ピュオー、芸術文化官僚や他のフェスティバル・ディレクターをつとめたベルナール・フェーブル・ダルシエらが歴任してきた。2004年から、ディレクターが30代に若返り、また協力ディレクターとして毎年、フランス国内外の若手の舞台人を選出し、フェスティバルに特色を持たせている。
 財政面を見ると、1999年は、5200万フラン(約9億円)で48作品の上演を行っている。通年の事務所の運営費、人件費の他、事前の制作費、ロイヤリティ、交通・運搬費、技術・運営事務費、広告費などが賄われる。新作制作費は、独自予算だけではなく、国立演劇センターなどと密接な関係を保ちながら共同制作を行っている。また、フランス文化ラジオ、アダミ(Adami実演芸能家たちへの制作支援を行う)、ボーマカスBeaumachais財団、著作権協会(SACD)、国立労働者庁演劇部(ANPE-Spectacle)など舞台芸術に関連する多様な団体との連携が欠かせない。海外とは在外公館文化部、フランス外務省芸術交流フランス協会(AFAA)、文化省国際交流課を通じて連携を図っている。
 
1-5.アヴィニョン・パブリック・オフの成立と展開

 パブリック・オフは1966年、アヴィニョン在住の演劇人であるアンドレ・ベネディトが、ヴィラールのアヴィニョン・フェスティバルとは関係なく同時期に自分の作品を上演したことがきっかけとなって始まった。ベネディトは、60年代にパリからアヴィニョンへと移り住み、戦後利用されなくなった教会を買い取り63年に現在のカルメ劇場を設立している。
 翌年以降もベネディトは自作の上演を続け、1976年には、35団体がインのフェスティバル期間に対抗して作品上演を行っていた。そこで、パリ在住の演劇人アラン・レオナールが、自分自身の作品を上演すると同時に、他の団体の会場地図やプログラムを作るようになり、また、公演場所を探す劇団や団体に会場を紹介するなどの支援作業を行うようになった。1982年には、アヴィニョン・パブリック・オフ協会(Assosiation AVIGNON PUBLIC OFF) を創設し、現在に至っている。(「オフ」の名称は、1971年にある新聞記者がアメリカのオフ・ブロードウェイにちなんで名付けたものという。2004年、増加しすぎたオフの作品の質に疑問を投げかける参加者たちが、独自のオフ組織を結成したが、2005年には再びもとの「パブリック・オフ」に吸収される、などの動きはある。)
 現在、フェスティバル期間中は、教皇庁の向かい側にある音楽学校を借りて、事務所、参加団体の窓口、ボックス・オフィスとしている。他にオフ協会主催で行うレクチャーやディスカッションの会場メゾン・ド・オフ、プレス・センターを、市から借りている。通常はパリに事務所をおいており、専従スタッフはレオノール一人だが、フェスティバル期間には30人余りを雇用している。

1-6.パブリック・オフの運営

 オフは、あくまで劇団などカンパニーや役者の自主参加による公演であるから、会場探しや宣伝広告は、参加者の責任で行うのが原則である。オフ協会は、そのために必要な情報の収集と提供を主な役割としている。従って、参加作品の選定を行ったり、優劣の評価を行うことはないし、またオフ全体の方向性を決定付けるようなことは行わない。オフ協会は、参加団体から参加費を徴収し、公演会場に関する情報提供、10万部発行する統一プログラムへの公演情報掲載、割引入場券パスの発行、プレスへの情報提供等々のサービスを提供している。
この他、劇団がオフで公演を行うには、会場費用、滞在費用、そして通常の公演に必要な制作費用が必要となる。会場の殆どは、通常は劇場として利用されていない空間であるから、オフで公演を打つためには、現地で会場確認をしないわけにいかない。会場使用料は、場所、付帯設備、客席数そして公演時間帯によって異なる。原則として、フェスティバル会期3週間を継続して同じ時間帯で借り切ることが求められる。3週間で、最低約20万円から、最高約240万円ぐらいまで格段の幅がある。午前中は安く、夕方から夜にかけての時間帯が高い。この他、期間中の俳優の他舞台スタッフの滞在費用などを考えると、数百万円の経費が必要である。
自由参加とは言え、100箇所に及ぶ会場をつぶさに見ていくと、劇場ごとに特色を持って運営されているところもある。フランス国内の自治体やベルギーのフランス語圏自治体が、地元の劇団やアーティストを紹介するために、各地域から選出した作品を上演している会場。オフの歴史的蓄積を経て、通年の劇場として運営されている会場では、劇場主催者の自作の上演のほか、その主催者の目にかなったものだけが上演されている。また、ソロかデュオのコンテンポラリー・ダンス公演に特化した会場、フランス海外領出身の役者や演出家に特化して作品を上演している会場、パリで活躍する劇場ディレクターが独自に作品選出・上演する会場など、実に様々である。こうした会場の場合、なかには会場を運営している主体が、参加団体や選出団体に助成金を与えていたり、会場費を格安にする代わりに、チケット収入を折半するなど、運営形態も多様である。

1-7.オルタナティヴ・スペースとしてのアヴィニョン・フェスティバル

 教皇庁中庭以外の場所が公演会場として利用されるようになるのは、多様なプログラム構成となる60年代後半からである。使用されていない教会堂やその中庭、夏休み期間中の大学、あるいは高校の礼拝堂やその中庭等が、公演会場として、当初はヴィラールにより、その後はフェスティバル・ディレクターや制作スタッフにより発掘されていく。中世期にローマ教皇の居所として文化的にも栄えたアヴィニョンには多くの教会堂が存在する。1967年にカルメ修道院、68年にセレスティン修道院、71年に白の告解者礼拝堂といった教会堂が、インの会場として用いられるようになる。フェスティバルの会場として毎年夏使用されることにより、利用されず手入れも施されなくなっていた教会に改修工事などが行われる契機となっている。
また、フェスティバルの規模拡大に伴い、旧市街である城壁の外にも、ピーター・ブルックによる「マハーバーラタ」の一晩をかけた上演で伝説的な場所となった石切場跡や、郊外の工場跡も会場として活用されていった。
 また、ローヌ川対岸のヴィルヌーヴ・レザニオンのシャトルーズ修道院は、フェスティバルを契機に現代戯曲創造・研究拠点として再整備、利用されている。選考を経て選ばれた劇作家のアーティスト・イン・レジデンスともなっており、フェスティバル期間には、作品上演の会場となる。
また、シェ・ノワール劇場、コンディシオン・ド・ソワなど、当初インの会場として利用されていた場所が、現在オフの会場として継続利用されている会場もある。
 インの事務局には、歴史的な建築物を劇場として使うことが、アヴィニョンの都市環境と舞台作品創造の双方に、優れた成果を生みだしてきたという強い自負がある。
 
(1)ヴィラールの意志を引き継ぐインの空間
 インの会場は、市立オペラ劇場を除けば、それ以外はすべて、フェスティバル期間のみの仮設劇場である。また、公演の核となる会場は、教皇庁中庭を始め屋外仮設劇場である。屋外劇場は、南仏の夏の遅い夕暮れを待って、夜10時前後に開演する。南仏の夏の気候は雨が少なく乾燥しているため、野外の公演であっても天候のリスクは小さい。
 毎年30カ所前後の仮設劇場を設営する労力と費用が、全体経費の中で占める割合は大きい。また、フェスティバル期間中に必要とする舞台設備や設営に携わる技術スタッフは、200人を越えるため、この人材の確保にインの事務局は独自のシステムを築いてきた。当初は、フェスティバルのために集まったスタッフに対して、レクチャーを実施していたが、その後インで独自に学校を設立し、人材養成を行っている。具体的には、受講者の技術レベルに応じて1ヶ月から数ヶ月の長さで、インターンシップ(現在所属している職場からの派遣)という形で、照明、音響、舞台美術、舞台監督などに関し受講できる制度を設け、舞台芸術全体を支える人材育成を行っている。
 96年のデータでは、3週間で約45演目が上演され、200人の技術スタッフが雇用された。そのうち、85人が20の舞台の専属スタッフとなり、残りは移動部隊として舞台美術の設置、仮設席、仮設舞台、照明枠、照明器具の設営を行った。そのための作業場は4、5ヶ月間稼働して、舞台美術、照明などが製作される。また、アヴィニョン・フェスティバルが所有する舞台設備があり、フランス国内の主だった文化施設で利用可能なシステムになっている。仮設舞台、座席をつくるための技術や製品、効率的な設備の運用が、長いアヴィニョン・フェスティバルの経験を通じて培われてきた。
 
 具体的な劇場を見てみる。屋外の場合は、仮設舞台、仮設席、照明枠が必ず設けられるが、屋内の場合は仮設舞台を設けず、建物の床をそのまま舞台とすることも多い。屋外で日中公演が行われることもあるが、背景となる周囲の建物や植栽との関係まで考慮し、舞台設営そのものが舞台美術となるような配慮がなされている。また座席は、日本ではスポーツ・スタジアムなどによく用いられる既成の観覧席が、ユニットとして効率的に組み立て、必ず舞台を最底面とした階段席となっている。100席ほどの会場でも、スタンド席が組み立てられている。
 教皇庁の中庭では、10階建ての建物に匹敵する巨大な石の壁を背景に公演が行われる。舞台技術や機器が高度化した現在でも、この場所で公演を行うことは、作品創造を行う演出家側にとってひとつの挑戦であり、フェスティバル創設者ヴィラールの意思と向き合う機会となる。歴史的にも物理的にも非常に強い個性をもった場所である。こうした特長が、この会場でしか成立しない独特の舞台作品を生みだしてきた。ヴィラールは、芸術文化の中心パリ以外で演劇活動を行うこと、「あらゆるものに手の届く演劇」を目指し、制度としての劇場以外の場所で舞台表現を行うことに大きな意義を見いだしていた。ヴィラールならではの劇場観であり、教皇庁中庭の劇場空間としての活用に繋がっている。その思想は、現在もフェスティバルの空間の姿に色濃く継承されているように思われる。
雨の少ない南仏の夏の気候や、夏の夜の野外なら空調が必要ないといった物理的な理由が、アヴィニョンの野外公演の継続を可能にしてきた要因ではあるが、多大なリスクと労力をかけて、3週間限り劇場を毎年設営するのは、こうした大きな思想的背景と舞台の魅力に支えられているからこそであろう。
 
(2)一時利用から常設劇場へ育つオフの空間
オフの会場は、劇場以外の建物の転用がほとんどである。当初は会場ひとつだが、5年後の71年には12カ所で38の演目、80年には40カ所で145演目、88年には80カ所で380の演目が上演されるようになっている。1980年代半ばからすでに、一カ所の会場で5つ、6つの演目が既に行われていたことになる。100ヶ所以上を数える会場の規模は小さなものがほとんどで、50~150人ぐらいの客席である。会場となっているのは、映画館、教会、倉庫、学校、車庫など夏の期間使われていない場所、中心市街地の空洞化で空いている事務所、作業所スペースである。また、公園、広場はもちろんバスや舟、テントなどの劇場もある。
そのうち、アンドレ・ベネディトのThe´a^tre des Carmes、ジェラール・ジェラスのThe´a^tre du Che^ne Noir、アラン・ティマールの The´a^tre des Hallesなど、年間を通じて劇場として運営されているのが、7ヶ所ほどある。いずれも、教会、倉庫などの低未利用の建物を劇場へと転用したものである。
人口9万弱のアヴィニョンで、1年を通じて舞台作品の製作と上演を行う「劇場」が、規模は小さくとも7箇所もあるというのは、日本の同じ人口規模の町と比べてみれば大きな数字である。また、いずれの劇場も、演出家や役者という創造を担う人材やソフトがあって成立している「劇場」である。こうした劇場設立の動機や理由は様々だが、夏のフェスティバルの継続的な開催がきっかけとなって育ってきた地域の劇場といえるだろう。

1-8.空間資源を劇場化するフェスティバル

 アヴィニョンのフェスティバルが都市空間に展開していった要因は大きく以下の3つにまとめられる。
(1)短期集中開催…滞在型の観劇と公演を促している
(2)インとオフの拮抗関係…過密なフェスティバル・プログラムの構成を促す
(3)限定エリア内での開催…多様な空間の利活用を促している
これらの要因が、既存の都市・建物の濃密な利用へ繋がり、独特のフェスティバルの雰囲気を醸成している。また、フェスティバル開催による継続的な既存空間の利用が、開催都市のいわば空間資源の維持管理を可能にし、その維持運営を支える独自の人材や仕組みを育ててきた。
 夏の期間に短期集中限定開催されるフェスティバルは、公演数の過密が都市空間を劇場へと転用することを促し、都市内に独特の劇場空間と舞台芸術を生み出している。
転用劇場、仮設劇場として、既存の建物や場所を利用するため、劇場に欠かせない舞台と観客席以外の機能、例えばホワイエ、ロビー、ボックス・オフィス、カフェなどは、建物外に押し出されている。そのため、劇場と外部空間との境目が曖昧になり、観劇に関わる多様な行為が可視化される。このことが、フェスティバルの魅力を高めている。
招待作品によるインと自由参加のオフという拮抗関係が、都市を劇場化していく大きなエネルギー源となっている。数十年にわたる、オフの経験が、次々と新しい場所を開拓し、街を劇場化してきたと言える。
都市空間の劇場転用は、地域に存在する空間資源を、芸術文化活動によって顕在化させる。アヴィニョンでは、発掘された転用劇場を本拠地に独自の演劇活動を展開している例が見られる。
フェスティバルが契機となって、日常住み暮らす都市の多様な場所が劇場空間の一部として転用されているのがアヴィニョンである。劇場という建物ではなく、こうした都市全体のきめ細やかな場所の劇場化をオルタナティヴ・スペースにならって「オルタナティヴ・シアター」と名付けることもできそうである。夏の期間の短期のフェスティバルが、舞台を支えるスタッフ養成となったり、劇作家養成機関を創出したり、芸術文化環境を支える仕組みを作り出してきた。フェスティバルの歴史が、アヴィニョンの演劇人たちを育ててきた。
 アヴィニョンは、地域の空間資源と舞台表現が緊密に結びついた芸術文化活動を積極的に進めていくことが、既存の都市空間のストックを生かした芸術文化環境整備につながっていった例とらえられよう。

【参考文献】
 Avignon 50 festivals Actes Sud、 1996
 世田谷パブリックシアター『パブリックシアター第3号 特集世界の演劇祭』、1997年





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